家族について 同い年の夫と1996年生まれの長女、1999年生まれの長男、2008年生まれの次女と、3人子供がいます。
日々のかけらの住人 yuccaです。
2024年2月時点で長女は近所で彼氏と同棲中 長男は東京で一人暮らし 次女は高一 という状況ですがこのページでは 次女の成長について、プロフィール延長戦ということで書いていきます。
なぜ次女の話をする?
ウチのこと?可愛く書いてねっ!
次女はのちに判明しますが ADHDという 発達障害があります。
現在 特別支援学校高等部に通っています 保育園の年中さんの頃 園長先生から 「し」や「り」の発音がちょっと、と指摘を受けました。それが何を意味するかというと、「発達の遅れ」。半信半疑でしたが 彼女は 1人遊びが好きで 大きい音が苦手 絵を描くのが好き ご飯を食べるのがヒトの倍かかり マイペースを極めてる ちょっと変わった子ではありました。
延長保育でお迎えに行っても喜んで私に駆け寄るってことはなく、あれれ?とは感じてました。
上の二人とは明らかに何かが違う。でも個人差があって当然だしなあ。。。
風邪を引くこともほぼなく 健康的には何の問題もなく ただ 中耳炎になった事がきっかけで 副鼻腔炎になりました 肌も乾燥しがちで プリプリのお尻に跡が残るほど掻きむしったり 皮膚科と耳鼻科に通う事が多かったです。
この点では長男も掻きむしってたし、とびひになって眠れなかったこともあるので気にはしませんでしたが。
季節の変わり目に酷くなるので、深刻ではないと勝手に思っていました。その時々で対処すればいいなあって。
あと、テレビの音が聞こえづらいとピッタリとくっついて、片耳で音を拾っていることもありました。
まあ、3人目ということで親も少しだけ心に余裕があったのかもしれません。
3者3様、それぞれが健康に育ってくれればそれでいいし。
保育園は6年通いました
住宅ローンレンジャーの我が夫婦には、「金を稼ぐ」という大きなミッションが。子供は必然的に産休明けから保育園に入れてました(ローンがなくてアパート暮らしだった時も、上の二人ももれなく、です)
そんな中で、次女だけが「ことばの発達教室」に通うことになりました。
自宅から車で10分ほどの 公民館の一室で 先生と一対一で向き合い 色んな遊び というか検査のようなものをしてもらい 1時間ほどで終わると 先生から 検査の内容を教えてもらい 家に帰る という事を卒園するまで続けました
この子は本当に 発達障害なのか でも 毎月通っていても いつまでたっても これでおしまい、もう来なくて良いです という言葉を先生から聞く事はなく それどころか逆に そのままでいいんだよ それが良いところだよと 暖かい言葉をかけてもらい、また来月ねーと言って別れる。
次女は何か障がいがあるんだろうなあ、とその時点でもぼんやりとしていて半信半疑で。
そのおかげで 親のわたしは 落ち込む事は特になく 次女と向き合うことができたように思います ことばの発達教室の先生方には 今もとても感謝しています
この保育園の時点ではまだ 発達障害は判明してません
ま、なんとかなるっしょ。
とにかく仕事して、金稼いでローン払って、子供は保育園で育ててもらってるし、大丈夫だろうと、本気で思っていました。
保育園年長の時に 就学相談がありました。 地元の公立小学校に行き養護の先生と養育学級の先生と面談し 本人の特性や 今までの病歴などを確認して 小学校でのクラスをどうするか などを話し合いました。 基本、友達と遊んでいる保育園では 「困りごと」というものを発見できずにいたので結果としては 通常学級に在籍して 様子を見ることになりました
小学校の6年間
公立小学校に入学し、ピカピカの1年生になりました。
保育園で一緒に過ごしたお友達がほとんどで 人間関係では あまり困ってなかったと思います
ですがしばらく経って 宿題などが多くなってくると 学習面で一気にしんどくなりました。
よくある算数ドリルや 漢字ドリルが とても苦手なのです 1ページこなすのに2時間はザラにかかりました
それでも 一桁の足し算や引き算はまだ スムーズな方でした 漢字もひらがなもまあまあ 書けていました
こんなに時間のかかる宿題なんて、無くなればいいのに と毎日思っていました。 本人も辛そうにドリルに向かっています。よく見ると、考えている途中で気が逸れてしまうようでした。もちろん できた時は褒めてあげ そのあとは好きな絵を書いて 過ごしていました
2年生に上がっても 同じでした。 先生が代わり 別の先生になっても 勉強の苦手は少しも変わることなく ドリルに2時間かけていました。先生と話す機会がありましたが、別メニューで勘弁してほしいと訴えることばかりでした。
しかし、良かったこともあります。
野菜を育てる授業です。
自分の好きな野菜の苗をスーパーに買いに行き、学校の畑に自分たちで植えて 育てるという学習は 喜んでやっていました。もともと実家の田んぼや畑が大好きでしたし、次女は大好きなキュウリとトマトにしたようです。友達のものと混ざらないようにプラカードを立てて、水をあげ、支柱にツルを巻きつけたりして収穫までやりきりました。
だから学校にいる間、ずっと困っているわけではなかったようです。
座学が苦手 まさにこの一言でした
ADHDの特性が 不注意、忘れ物が多い、気が散りやすいなど個人差はありますが次女の場合、
授業中の 手いたずらが絶えませんでした いつも周りの友達や支援の先生に手助けしてもらい なんとか45分間 席についてやり過ごすという日々
授業中に席を立って動いてしまう「多動」はありません。
なので「じっとしてる」ことは苦でなかったため、先生に褒めてもらったりしてました。
給食に関しては一貫して(現在も)誰よりもゆっくり食べるので いつもびりっけつでした。
学校では学期ごとに担任や通級の先生、時には校長 教頭まで巻き込んで「校内委員会」なるものを行い 次女の学校生活を共有し 支援してもらっていました。
また ことばの発達教室も継続して通っていました 同じ公民館の今度は 遊びの部屋ではなく 勉強する部屋です 先生は違う小学校のカウンセラーの方でした。 一緒に宿題の おさらいをしてくれていましたので 助かりました 次女は 1対1で指導してもらった方が よほど集中出来るのか 先生には褒められたり ふざけて怒られたりして 楽しく通っていました。
学校が好きで 行きたくないと言ったことは一度もありませんでした。 休み時間になると友達が寄ってきてゲラゲラ笑ったり、絵を描いたりして一緒に過ごしてくれました。苦手な授業はありますが それを凌駕するほど 友達との関係や 先生との関係は 特になんの心配もなかったです。
ここまでのまとめ
次女の成長ということで
保育園での出来事や小学校低学年までを記事にしました。
いかがでしたか?子供の障がいについて、書こうと思ったのはもしも悩んでいる人がいるならば、少しでも気持ちが楽になれたらな、という思いです。
長くなってしまいましたね。障がいもいろいろありますから、参考になっているかは疑問ですが、我が家の場合ということでご了承ください。
ADHDと診断を受ける4年生の頃から現在までを次回にまた書きたいと思います。
最後までお付き合い、ありがとうございます。
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